【花蓮】新城神社:キリスト教の教会になった神社

花蓮県北部に広がる太魯閣(タロコ)渓谷へ続く省道を北上し、台鉄の新城太魯閣駅付近で道を外れて少し入ったところに新城天主堂というキリスト教会があります。

台湾の中でも寺や廟に変わった神社はありますが、ここはキリスト教の教会に生まれ変わった神社跡です。


ubpe15_1508_@.jpg
▲天主教会の看板が付けられた神明鳥居。なんとも違和感があってエキゾチックです


昨年月、撮影のため花蓮の太魯閣渓谷を訪れました。

仕事なので、私の趣味である台湾の神社遺跡へ行く予定も時間もありません・・・。

太魯閣渓谷での仕事が済み、花蓮市内へ戻る頃にはもう午後6時を回っていました。

陽は落ちて薄暗く、さらに雨季だったので激しい豪雨・・・。

ですが、行けるチャンスは今しかありません。

思いきって新城神社へ行くことにしました!


レンタカーだったので、新城神社にはすぐに到着。

しかし、外は相変わらずバケツをひっくり返したような雨・・・。

とはいえ、はるばる花蓮まで来て、そして新城神社の鳥居が今、目の前に雨に打たれながらも立っています!

豪雨だろうが夜だろうが、私の写真を撮る決心は変わりません!

大事なカメラにタオルを巻いて傘を差し、いざ車の外へ!

そして一瞬で、私の背中と足元はずぶ濡れに・・・。

しかし、逆にそれが開き直りのきっかけになり、撮影魂に火が付きました!

たとえ雨でカメラがダメになったとしても、私の新城神社へ情熱は変わりません。

とはいえ夜のため、さすがに教会の中にまで入って写真を撮らせてもらうのは非常識かと思い、外から撮れる鳥居と灯籠のみ撮影し、敷地の中はあきらめることにしました。こんな状況とはいえ、来れただけでも幸せだと自分に言い聞かせました・・・。

いつの日か、また来るぞ!


ubpe15_1516_@.jpg
▲教会入り口付近の三の鳥居。奥には狛犬と本殿辺りにマリア様の像が確認できました。
灯籠の柱が赤く塗られてますが、この雰囲気は神社の参道



なぜ、神社がキリスト教の教会に生まれ変わったのか?

戦後すぐ新城神社の本殿は壊されましたが、その後キリスト教の関係者が神社の土地を購入し、鳥居や灯籠など神社の面影を残す形で、1965年にキリスト教の教会が建てられました。しかし1972年に台湾の中華民国と日本が国交を断絶すると、日本の象徴的な建造物を排除しようと国民党政府が動き出しました(「はじめに その4:神社破壊命令??」参照)。

そこで、教会のスイス人の神父さんがなんとか神社の痕跡を残そうと、鳥居を中国式に見せかけたり、灯籠にも手を加えたりしたそうです。

ただし一の鳥居だけは、笠木の両サイドが政府によって切り取られたそうです。

それにしても台湾人でなく、スイス人でありながら、日本文化を守ろうとした姿には頭が下がります。

客観的・中立的な立場でありながら、なぜこうした行動に出たのか・・・、歴史的事実を残そうとしたという理由だけなのでしょうか・・・。またいつか新城神社跡を訪れ、是非話を聞いてみたいです。


ubpe15_1514_@.jpg

▲二の鳥居の脇には日本時代の新城神社が絵で紹介されています。鳥居は一見、三輪鳥居のようにも見えますが、神父さんが神社を撤去・破壊しようとする国民党政府を納得させるために付け足した支柱のようです




*新城神社の創建


新城神社が建立された背景には、悲しい出来事があります。

明治28(1895)、日清戦争の結果、清国より日本へ台湾が割譲されました。

このブログの汐止神社の記事で書きましたが、日本は台湾内で日本に抵抗しようとする勢力を一掃するため、皇族の北白川宮能久親王率いる近衛師団を送り込みます。この台湾征討は半年程で平定宣言を出しました。しかし、日本が掌握したのは平地に住む漢民族のみであり、台湾内には清国も「化外の地」として恐れたという山岳地帯をテリトリーとしていた原住民たちがいました。

日本政府は台湾を統治しながら原住民の帰順を促していく事になります。その中で明治29(1896)12月、「新城事件」が起こりました。

花蓮港守備隊の日本軍兵士の一人が原住民タロコ族の女性を辱め、その報復に日本兵13名がタロコ族に殺害されたのです23名という説もありますが、慰霊碑には13名の名前が刻まれているようです。未確認ですが)。


その翌月の明治30年(1897年)1月、日本軍は報復のためタロコ族討伐に向かいました。元々山岳地帯をテリトリーとしていたタロコ族は、日本軍に対して粘り強い抵抗をみせ、日本側にも多数の犠牲者が出てため、5月になると日本は軍隊をいったん引き上げました。

その後も明治39年(1906年)の威里事件、明治41年(1908年)に発生した七腳川事件など、原住民が給料などの不満から日本人が多数殺害された事件も起きました。

そこで大正3年(1914年)5月、第五代台湾総督佐久間左馬太による五箇年理蕃計画のもと、原住民との最大の戦いといわれた太魯閣蕃討伐へ向かいます。

そして8月、収束宣言を出しました。


太魯閣蕃討伐後のこの年、新城事件から18年の時が経って現在の新城神社の場所に小さな祠や鳥居などが建てられました。

大正9(1920)、同地に「殉難將士瘞骨碑」建立。

昭和12 (1937) 10月、コンクリートで社殿が建てられ、新城神社の建立となります。この時に、大国魂命、大己貴命、少彦名命、北白川宮能久親王が祭神として鎮座しました。


▲看板には新城神社ができた経緯や、教会になったことなどが記載されています。
この灯籠も鳥居と同じく、神社のものではないと納得させるために赤く塗られたらしいです



*ついに念願の場所、新城神社へ

私が新城神社跡に着いたのは日没後の午後6時頃、なおかつ土砂降りの雨でしたので、残念ながら敷地の中は見ることができませんでした。

それにしても、台湾の雨は強烈です・・・。


教会の敷地内にある、神社だった時の本殿の跡地には聖母マリア像が置かれているそうです。教会の形はノアの方舟を模して作られたとか。

新城事件の犠牲者である兵士の方々の慰霊碑や狛犬も敷地内に保存されています。

そして何よりも興味深かったのが、神社だった時の手水舎の水盤が、教会の中に移されているということです。

今は教会の聖水盤になっているのでしょうか。


ubpe15_1526_@.jpg

▲三の鳥居、教会の入り口。神社の雰囲気が残っていますね



台湾に限らず、かつて日本の領土だった外国の地には、いまだ神社の痕跡があるそうです。私が海外の神社跡に惹かれたきっかけが、西牟田靖氏著『僕の見た「大日本帝国」』に掲載されていたサイパンにある神社跡で、現在はキリスト教の教会でした。

その写真はショッキングであったと同時にエキゾチックであり、自分の目で海外の神社跡を見てみたいと強く思うようになりました。

そして違う土地の台湾で、同じキリスト教の教会になった新城神社の姿を見た時、私は「ついに来た!」という達成感に浸っていました。

花蓮に来てからというもの、晴れていても西側に見える山脈はいつも真っ黒な雲が漂っていました。

夜のとばりが下り、街灯に灯が燈る。雨に打たれ、背中と足元はずぶ濡れに。
しかし、現在のカメラ技術はたいしたもんですな。

この状況下、フィルムだったら撮るのあきらめていました。

次にこの新城神社に来る時は、青空の下で写真を撮りたい・・・。



ubpe15_1552_@.jpg

▲笠木に公園のゲートの看板が付けられた一の鳥居。両端は切り取られ、貫は取り外されてしまった。それでも立っているだけで私には十分です




この記事へのコメント


この記事へのトラックバック