【桃園】大渓神社 その1:バロック様式の古い街並みの中に眠る


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大渓神社跡は、桃園市を流れる大漢渓という大きな川沿いの大渓老街のそばにあります。近くに鉄道の駅がないので、台鉄の桃園駅で降りてそこからバスかタクシーで行くことになります。

私はその前に台湾の陶器を楽しみたかったので、桃園の一つ手前の鶯歌駅で降り、陶器街に寄ってからタクシーで大渓老街へ向かいました。

鶯歌からはタクシーで、途中のどかな田園風景を楽しみながら30分ほどで到着しました。


大渓神社のある大渓は日本統治前から栄えていた古い街で、現在は統治時代に建てられたバロック様式の風情のある街並みで有名です。この独特の街並みは、台湾の他の街ではあまり見られないのではないでしょうか。


大渓神社を目指してここまで来た私ですが、この街の雰囲気に惹かれて散策をしてみたものの、下調べは神社の方ばかりでしたので、あちこちをさまよう羽目に・・・。

おかげで大渓神社を見る時間が少なくなってしまいました・・・。


ukqb23_daikei_2.jpg▲ヨーロッパの古い街並みのような大渓老街。なんとも魅力的です



大渓神社を紹介する前に、少し大渓について触れたいと思います。
大渓は日本統治以前は大姑陷と呼ばれていて、途中何度か名前を変えた後、日本統治時代に大渓と呼ばれるようになりました。
「大姑陷」とは周辺に住む原住民タイヤル族の言葉で「大水」という意味だそうです。大漢渓の「渓」は、台湾では川の意味があります。清の時代から漢族と原住民タイヤル族の、互いの物流の拠点でありました。

地図で台湾を見るとわかりますが、大漢渓は内陸部の大渓まで広い川幅が続いています。下流へ行くと、新北市と台北市の境辺りで淡水河と合流し、淡水の河口へと向かいます。これは内陸や山間部への物資の行き来にとても適しています。

当時は今のようにダムや用水路などがなかったので、水位ももっとあったはずですから、大きな船も運航できたのではないでしょうか。



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▲大渓は大漢渓という大きな川沿いの街です。120年前、この川を船がたくさん往来し、街は賑わっていたことでしょう。この付近は戦場にもなりました



日本統治に入ると、山岳部の木材などを運ぶため、ますます賑わうようになったといわれています。現在大渓に残る優雅なバロック風の建築群は、いかにここが栄えていたかをうかがわせます。

大正13年(1924年)、烏山頭ダムで有名な八田與一が桃園一帯の農地のために桃園大圳(水路)を造ったことで、桃園一帯の農村は豊かになっていきました。しかし大漢渓の水位が下がり、大きな船が運航できなくなったため、河川の物資輸送が次第に下火になっていったようです。

また、日本による近代化で鉄道や道路が整備されたために、こちらが輸送の中心になっていったことも原因だと思われます。




*大渓はかつて日本軍を迎え撃った戦場だった


明治28年(1895年)7月、台湾北東部から2ヵ月前に上陸した北白川宮能久親王率いる近衛師団が、ここ大姑陷(大渓)付近で台湾の義勇兵や住民と衝突しました。この近衛師団の台湾征討は汐止神社でも書きましたので、よろしかったらご覧ください。


清国の官僚で台湾巡撫(最高地方統治官)の唐景崧は「台湾民主国」を立ち上げ、世界に台湾を独立国と認めさせて三国干渉の時のような状況を模索しましたが、世界には受け入れられませんでした。そして近衛師団が台湾に上陸するや、真っ先に大陸に逃げてしまったのです。

台湾民主国は、清仏戦争で活躍した清国の英雄・劉永福が引き継ぎ、近衛師団の悪い風評を流して台湾住民たちを焚き付け、戦いを有利にしようとしていました。


その結果、女性を含む一般住民も戦闘に参加していたようです。

特に原住民のタイヤル族は、山岳地帯で暮らす狩猟民族であり、漢族よりも郷土意識が強いのか、すさまじい抵抗をみせたようです。

この大姑陷(大渓)での戦いの様子は『大姑陥戦紀念録』という記録が残されていて、国立国会図書館のWEBサイトで見ることができます。

大姑陥(大渓)の戦いでの日本側の戦死者は51名と記録されています。


台湾では乙未戦争といわれる近衛師団による台湾征討は、最終的に台湾側の犠牲者はおよそ千人といわれ、日本側の戦死者は諸説ありますが数百名から千名余りだったようです。

この数の差は正式な軍隊と、近代的な武器を持たなかった台湾住民たちによるゲリラ戦だったことが大きいでしょう。

また、蔡焜燦氏著『台湾人と日本精神』によれば、台湾民主国を立ち上げた人々は元々大陸の出身で、台湾で築いた財産を守ろうとしただけで、台湾というアイデンティティを持っていたわけではなかったようです。


そして残された台湾出身者たちは混沌とした台湾の秩序回復のために、日本軍を手引きして台北に入城させたとも書かれています。たしかに汐止神社で書いた商人の蘇樹森などは、そのような人物だったのでしょう。



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▲大渓橋。元々橋がありましたが、日本統治時代に吊り橋が架けられました。そして現在の鉄筋コンクリート製になりました



前台湾総統の馬氏は、台湾征討時の台湾住民の抵抗を根拠に、台湾にも抗日活動があったと言っておられ、日本に対しては親日的な態度を示した人ではなかったようです。

確かに国際的なルールの上で台湾を領有した日本ですが、抵抗した台湾の犠牲者の数を見れば、力ずくでと言われても致し方ありません・・・。このことは、今の台湾人が日本に友好的な態度を示していたとしても、心の中に留めておきたいですね。



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▲子連れの狛犬と大渓神社参道

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では、肝心の大渓神社のお話は次回・・・。
















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