【新北】汐止神社 その2:鄭成功に次ぐ台湾の英雄??



汐止神社の歴史を、汐止忠順廟のWEBサイトで見ることができます。
中国語で書いてあるのですが、根気よく解読してみました。

すると、汐止神社の歴史には2人の人物が浮かび上がってきました。ひとりは、日本の皇族である北白川宮能久親王(18471895)。もうひとりは蘇樹森(18271903)です。



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▲汐止神社一の鳥居、後ろから。数年前まで鳥居の前には橋が架かっており、鳥居の下の灯籠は、橋のたもとにあった灯籠のようです



北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)は、もともと伏見宮邦家親王の第九王子で、明治に入ってから北白川宮を相続しました。陸軍中将として清国から割譲された台湾を平定するために、近衛師団を指揮して台湾北東部から上陸し、遠征途中にマラリアにかかり、台南で薨去されました。


蘇樹森(そじゅしん)は、代々水返脚と呼ばれる現在の汐止の辺りに住んでいて、蘇家の第四代目です。蘇家は茶畑などを経営していて、この辺りの実力者だったようです。

先祖は大陸の福建省の出身で、満州族の清に滅ぼされた明の再興のために、鄭成功とともに1600年代中頃に台湾へ移動してきた人たちであろうと思います。



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▲狛犬の台座に汐止信用購買利用組合と書かれています。当時の農協のようなものでしょうか




*台湾の隠れた英雄?? 蘇樹森


明治時代初期、大陸では清仏戦争(18841885年)が起きました。フランスが清国からベトナム(清国の冊封国)を奪った戦争です。
フランス軍は、台湾をも占領しようと基隆に上陸しました。

そのときおよそ500人の義勇軍を募り、フランス軍と戦ったのが蘇樹森です。結果、フランスの台湾占領はうまくいかず、蘇樹森は台湾防衛に多大な貢献を果たしたのです。

そのとき蘇樹森は清の朝廷から「四品軍功舉都司銜」という位を授かります。日清戦争後に台湾が日本の領土となると、台湾総督府は蘇樹森に紳章を授けます。そして炭鉱経営などの権利も与えられ、茶農家から炭鉱経営者へと変わりました。

資料によると、蘇樹森は上陸してきた北白川宮能久親王を水返脚(現汐止あたり)に迎え、舎営地(宿営地)として建物を建てました。


実は、台湾は清国から条約で割譲されたとはいえ、現地台湾では清国の官僚で台湾巡撫(最高地方統治官)の唐景崧(とうけいそん)が台湾民主国を立ち上げ、上陸してくる日本軍に抵抗しようとしました。

清国では表向き台湾を割譲しましたが、裏では清仏戦争で活躍した雲南省方面の軍閥である劉永福(りゅうえいふく)を使い、台湾防衛を命じています。劉永福は台湾民主国のリーダーにもなりましたが、日本軍に歯が立たなかったのか大陸へ逃亡しました。


台湾出身者では丘逢甲(きゅうほうこう)が義勇軍を募り、日本に抵抗しましたが、追い詰められて彼も大陸に逃亡しました。

ちなみに唐景崧も台湾民主国を立ち上げて、わずか週間ほどで大陸に逃亡しています。


蘇樹森は義勇軍を動かせるほどの力を持っていたのになぜか日本軍に抵抗はせず、はじめから友好的だったようです。そして炭鉱などの権利も得て日本の統治下で成功していきます。もともと商売人のようなので、日清戦争で負けた清国には未来を見出せなかったのかもしれません。


当時西洋文化を取り入れ、急成長していった日本。清国は眠れる獅子といわれ、日本に大勝するだろうといわれていたのですが、実は伝統を重んじるあまり時代に取り残され、近代化した日本には敵わなかったのです。そして日清戦争後は日本に学べと、清国から留学生がたくさん日本へ学びに行きました。

戦後の台湾の運命を背負った蒋介石もそのひとりです。


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▲狛犬正面。目に色を入れているため、ぎょろっとしていてちょっとびっくり・・・、後ろ姿の尻尾がかわいい




*時代の波に翻弄された北白川宮能久親王


北白川宮能久親王は遠征途中でマラリアにかかり、台湾平定を前にして台南で薨去されたと伝えられていますが、一説によると台湾原住民の襲撃にあったとか、義勇軍に殺害されたなどともいわれています。

海外ではじめて戦死した日本の皇族である北白川宮能久親王を祀るため、明治34(1901)に現在の圓山大飯店の場所に台湾神社を建立し、終焉の地である台南にも台南神社を建立しました。台湾神社は台湾の総鎮守として、象徴的な神社になります(終戦の前年に台湾神宮と改称)。

能久親王が遠征途中、宿営地とした水返脚(汐止)は、後に能久親王を記念する御遺跡に指定されました。


能久親王は、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に担がれ、一説には東武皇帝として即位したともいわれています。奥羽越列藩同盟は能久親王を利用して、もうひとつの日本を作ろうとしたのでしょうか??

その後能久親王は蟄居させられ、処分を解かれた後、伏見宮家に復帰しました。そして、一時は敵対していた明治政府の下で陸軍の中将になり、台南で薨去された後、台湾各地の神社で祀られることになります。

なんとも波乱に満ちた人生だったのですね!




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▲汐止忠順廟の内部。台湾の人々は、年代を問わず信仰心に厚いんです




*汐止神社建立


昭和9(1934)に台湾総督府から「一街庄一社」というのが発令され、昭和10(1935)、御遺跡に隣接して汐止神社は建立されました。

年後の昭和12年に北白川宮能久親王をはじめ、天照大神、大己貴命、倉稲魂命、明治天皇が鎮座されました。

一街庄一社というのは、戦時意識高揚のためにこの頃広まっていた皇民化政策の一環だと思われます。

汐止神社もその波に乗って建てられたのでしょう。


ちなみに北白川宮能久親王は台湾の多くの神社で祀られていて、汐止神社が特別北白川宮能久親王のための神社ではないようです・・・。

しかし、御遺跡に隣接して建てられたため、北白川宮能久親王を記念する重要な神社だったことには違いないでしょう。



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▲鳥居についていたプレート。中華民国58年(1969年)5月、まだ日本と国交があったころに修復されたようです




*汐止神社の戦後


終戦の翌年、1946年に汐止神社は近くの済徳宮から、中華圏の神様である保儀大夫神尊を迎え、汐止忠順廟と改名することになりました。1957年に社殿の壁が崩れたため、翌年に鉄筋コンクリートで現在の廟の建物に建て直したと資料には書かれています。
蒋介石国民党政権の下、11年間神社の社殿のまま廟だったことが興味深いですね。


また、1972年の日中共同声明後、蒋介石の国民党政権で反日感情が盛んになり、1981年に地方政府によって、灯籠や狛犬は強引に取り除かれたり移されたりしたようです。

1974年に「日本を象徴する建造物の徹底排除」が発令されていながら、7年間も汐止忠順廟は何もしていなかったのでしょうか・・・、そして役人があわてて排除しに来たのでしょうか・・・。


それでも現在まで大鳥居や狛犬、皇紀2600年を記念する灯籠などが敷地内に残されているということは、ここでも日本の遺産が大事に守られてきた証ではないかと思います・・・。



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▲神社跡の裏の道。古い雰囲気の商店街が数百メートル続いていました


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 ▲そして突然の大雨・・・、なかなか迫力がありました



*蘇樹森は鄭成功並の英雄のはずでは??


桃園市政府のWEBサイトの桃園忠烈祠(桃園神社跡)のページを見てみると、祀られている方々の忠烈祠烈士姓名清冊(中華民国のために殉じた英霊のリスト)を見ることができます。


300名近くが桃園忠烈祠に祀られているのですが、番目は鄭成功(福建省出身の約400年前の人物で母親は日本人。清国に抵抗し、台湾を占領していたオランダを撃破した偉人)ですが、2番目に丘逢甲、3番目に劉永福が祀られています。この2番、3番の2人は、たしかに台湾のために戦ったのかもしれませんが、後に大陸へ逃れています。


1番目の鄭成功は、時代的に中華民国とはまったく関係ありません。

それなら、フランス軍と戦って台湾防衛に貢献した蘇樹森は鄭成功に次ぐ英雄でもおかしくはないと思いますが、名前が見当たらないではありませんか。蘇樹森も忠烈祠に名を連ねてもおかしくはないと思います。

軍人ではなく商売人ではありましたが、なにより日本に協力したからなのでしょうか??
そもそも、戦死したわけではないからなのかもしれませんが・・・。


かつて日本だった台湾。当時の遺跡から教科書には書いていない、日本のもうひとつの歴史が見えてくるんですね~!



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▲裏の商店街で米粉湯を堪能いたしました。おいしかった~!

 

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