【新北】猴硐神社 その2:炭坑の町の神社とさまざまな物語


ここは新北市瑞芳区。台北駅から約一時間、宜蘭線の猴硐駅から歩いて約15分。周辺には民家が数軒しかない、ひっそりとした山の中。猴硐はかつて鉱山として栄え、猴硐神社は鉱山で働く人々の安全を祈願するために作られた炭鉱会社の私設神社だったようです。



uapc17_9720.jpg
▲猴硐駅前は炭坑の施設が廃墟のまま残されていて、その迫力に圧倒されてしまいました。


uapc17_9632.jpg
▲猴硐神社正面鳥居

uapc17_9664.jpg uapc17_9682.jpg
▲階段を登ると本殿前だったと思われる場所に休憩所が・・・。石垣と基礎部分が残るだけで神社の建物は跡形もありませんが、ちょっとした広場になっています。日本人の私としては本殿跡の真ん中を貫いている道を避けて通ってしまいました。




*不思議な形の灯籠の謎


この猴硐神社は木造の鳥居以外にも面白いものがありました。

階段の参道脇に灯籠が立っています。これは織部灯籠といわれ、別名キリシタン灯籠とも呼ばれています。この神社創建に関わった人物がキリシタンだったのだろうか・・。


uapc17_9692.jpg

▲これが織部灯籠です。竿石の部分がかわいい。石の色が新しく見え、近年立てられたと思われます。


織部灯籠とは、戦国時代から江戸時代初期の大名である古田織部古田重然の名前からきています。彼は茶人としても知られ、茶会の際に露地を照らす灯りとして発案した灯籠の形といわれています。

キリシタン灯籠といわれる理由には、竿石の部分が十字架のように見えるとか、下方に聖人にも見えるような像が彫られていることなどがよく挙げられます。しかし、古田織部がキリシタンだったかどうかは諸説あり、はっきりとしたことはわからないようです・・・。ちょっと残念。


織部灯籠は日本でも珍しい形だと思いますが、なぜ台湾の猴硐神社で織部灯籠が使われたのだろうか・・・?

それ以前に、この灯籠はどう見ても新しく見えます。

織部灯籠とは、竿石の高さ調整ができるように直接地面に刺して設置するものなので、土台は不要です。それに、ここの灯籠の土台は古いうえに大きく、織部灯籠の大きさと比べてどう見てもバランスが悪いです。


推測ですが、この織部灯籠は近年誰かが新しく設置したのではないか、とも考えられます。そうだとしたら、この灯籠はもちろん善意的な意味での復元だと私は思いますが、なぜ織部灯籠なんだろう・・・、もともと織部だったのだろうか・・・? 謎です。



*猴硐の炭鉱の歴史


猴硐神社を調べてみたら、さまざまなドラマがあったようです。それは台湾での出来事ですが、日本の歴史でもあるのではないか・・・?


uapc17_9709.jpg

▲瑞三大橋は駅前にある選炭場へ石炭を運ぶための橋で、トロッコのレールが敷かれています。



この猴硐神社がある瑞芳区一帯は、日本が台湾を領有するとすぐに炭鉱の町として栄え始めます。近くの九份あたりは金も採掘され、ゴールドラッシュで賑いました。


日清戦争は明治28(1895)に終わり、台湾に上陸した日本の近衛師団による台湾平定は、その年の11月に完了しました。

そして顔雲年という人物が明治30(1897)、台湾総督府に採鉱権の申請をして、2年後にその権利を得ます。

台湾の植民地経営もまだ始まったばかりというのに、日本は台湾人による炭鉱経営を認めていたのです。


その後顔雲年氏は台湾人の金鉱の大物と呼ばれるまでになります。新北市のウェブサイトによると、彼の「瑞芳炭山」及び日本の鉱山王と呼ばれた木村久太郎氏との合資による「久年二坑」が合併し、大正7(1918)、「基隆炭鉱株式会社瑞芳三坑」が誕生します。顔氏は炭鉱業だけでなく、造船業なども手がけ、台湾では指折りの資産家として名を馳せました。

顔雲年氏と木村久太郎氏が合資した会社は「久年二坑」といいますが、これはお互いの名前を取って付けたように思えます。どうみても対等な立場で、協力し合おうという感じが読み取れます。


植民地といえば、現地人を酷使し富を搾取するという印象がありますが、現地人にも日本人と対等に事業をさせ、資産を持つことを認めたのが日本の植民地経営のやり方だったのでしょうか・・・?

日本が行った植民地統治というものは、かなり興味深いと思います。

ちなみに顔雲年氏は、なんと歌手の一青窈さんの曽祖父だそうです。以前テレビで彼女の特集を見ましたが、お父さんがこの顔氏一族の長男だと紹介されていました。


uapc17_9715.jpg

▲瑞三大橋のトロッコのレール。向こうに見える建物は、瑞三鉱業の事務所跡です。



*もう一人の台湾人資産家の運命


台湾ではもう一人、李建興という優秀な人物が現れます。彼は若い頃から炭鉱に関わり、実力をつけていきました。

昭和9(1934)「瑞三鉱業」を興して、「基隆炭鉱株式会社瑞芳三坑」から猴硐地区の採鉱権を請負います。瑞三鉱業は日本が去った戦後も石炭を掘り続け、1990年に閉山するまで、台湾の経済発展に尽くしました。李建興氏もまた、顔雲年氏同様、資産家にまで上り詰めた人物です。


しかし昭和15(1940)、「瑞芳事件」というのがおきました。

李建興氏は国家反乱罪で逮捕され、鉱山も捜査されて何百人も逮捕されました。獄中で何十人も死に、李建興氏の兄弟も犠牲になりました。

これはかなり大きな事件だったそうです。この事件の10年前に、霧社事件という日本人約140名が原住民に殺される事件が発生しています。

昭和15年は太平洋戦争が始まる1年前で、日本はかなりテロなどに神経質になっていたことは確かでしょう。

しかしこの事件、逮捕された結果だけしか情報がなく、経緯については謎が多いですね。

台湾北部のひっそりとした山の中にこっそりとある猴硐神社跡。

いまや目立たない存在のこんな小さな神社から、さまざまな物語が見えてくるなんて・・・。




*猴硐は廃墟マニア、ネコマニアにもおすすめ!


そんな猴硐には今、過去の産物となった瑞三鉱業の廃墟が残っています。

建物は崩れ落ち、手付かずのまま・・・。
ここは廃墟マニアにも魅力的なのではないでしょうか。


また、ネコ村としても有名な場所です。近年ネコが増え始め、ネットの反響で有名になったそうです。


平日に訪れたというのに、ネコカフェは満席で、おまけに雨・・・。駅前のネコだらけのお店を楽しむ間もなく、猴硐を去りました・・・。

ネコ村へ来た際には是非、神社へも足を延ばしてみてはいかがでしょう。


ネコちゃん.jpg

▲猴硐駅前で出会ったネコちゃんたち。人馴れしています。



*補足


新北市のウェブサイトによると、猴硐神社創建は、昭和9(1934)となっています。しかし、石造の鳥居には「昭和十九年四月建立」と書かれており、昭和19(1944)創建なのかとも思ってしまいます。

昭和19年といえば、日本の戦況が悪化していた太平洋戦争末期ですので、その時期に神社を建立したとはちょっと考えにくいです。

本文に書いた通り、瑞三鉱業が猴硐で炭鉱を始めたのが昭和9年なので、新北市のサイトの通りでもおかしくはありません。しかしそれ以前に日本人が関わっている基隆炭鉱が猴硐で採鉱しているので、昭和9年以前に基隆炭鉱が神社を建立していた可能性もあるのではないかと・・・謎です。


また、「瑞三礦業公司產業奉公團」の文字が「奉獻」の右側面に彫られているようです。私が猴硐を訪れた時、この文字は消された痕跡があってわかりづらく、後日ウェブで確認したところ「瑞三礦業公司產業奉公團」と読み取れました。

「公司」という言葉は中国語です。日本語が公用語だった台湾で、またこの頃は太平洋戦争末期、台湾人の皇民化日本人と同じ意識を持たせようとする運動が進められていた頃です。そんな時期になぜ「公司」を使って奉献したのでしょうか? それもまた謎の一つですね。


猴硐神社では、たくさんの課題が残ってしまいました・・・。
今後機会があったら、それぞれの謎の解明に挑みたいと思います


uapc17_9658.jpg





この記事へのコメント


この記事へのトラックバック