70年ほど前まで日本が支配していた台湾。日本人に置き去りにされた神社の数々は、今遺跡として台湾人の手によって大事にされています。
ガイドブックに載っていない、紹介もされない、いったいどんな物語があったのでしょうか?? 台湾に残された日本文明の謎・・・。
前回の続きです。

▲昭和11年(1936年)に建立された瑞芳神社にあった狛犬。現在は九份への玄関口、瑞芳駅近くにある龍巌宮で台湾の人々を見守っています。
西洋に追いつくため近代化を進めていた日本は明治維新からわずか26年、お隣の清国と戦争(日清戦争)になりました。勝利した日本は1895年、下関条約に則り清国から台湾を割譲されます。日本の領土となった台湾はどんどん近代化していき、その過程で神社も建てられていきました。
1937年、日中戦争が始まる頃から台湾では皇民化政策が行われ、台湾人の神社への参拝が奨励されるようになります。私が確認した神社跡だけでも昭和9~14年(1934~1939年)頃の年号が彫られている石碑が多く、この頃特にたくさんの神社が建てられたようです。
▲この龍巌宮は1957年に建立。この廟の近くにあった瑞芳神社の狛犬は、ここに保存される事になりました。灯篭は瑞芳駅の入り口にあります。
皇民化政策と聞くと神社参拝の強制、宗教弾圧のような暗いイメージを持つ方も多いと思います。当時の日本は国家神道を主軸としていましたが、明治憲法では第28条で基本的に個人の宗教の自由が保障されていました。
台湾では明治憲法は施行されていませんでしたが、第四代台湾総督の下で活躍した、台湾近代化の父といわれる後藤新平は、持論である「生物学的植民地経営の原則」に従って統治を実践していました。生物の習慣は必要性から生まれたものであって、これを無理に変えることは大きな反発を生む。これは50年の台湾統治において基本的な流れだったと思います。
台湾には清の時代からキリスト教徒が存在し、日本の統治時代においても西洋の宣教師が台湾で布教活動をしていました。日本からは各仏教の寺院、新興宗教なども台湾で布教して信者を多く得ています。中華圏特有の道教などは、古くから台湾民衆の熱心な信仰がありました。台湾でも宗教の自由は他に危害を及ぼさない限り許されていたのです。(危険な行為とみなされた原住民の信仰は部分的に禁止されたものもあります。)
そもそも神社の神道とは、一般的な宗教とは性格が異なり、教義も布教活動もありません。日本の風土、風習から生まれた日本古来の文化です。
明治になってから宗教的要素が強い陰陽寮は廃止され、日本の起源としての理念から国家神道として採用されたのです。他の宗教を信仰していても、神社に参拝に行く日本人は多いと思います。
台湾人に参拝が奨励されたのは日本国籍を有するものとして、そして戦争の色が濃くなってきてからは台湾系日本人として、日本人と気持ちを一つにさせる狙いがあったのでしょう。日本人に対しても同じように国民意識を一つにまとめようとする動きがありましたが、戦局の悪化と共に異文化の台湾人により強く求めていったのは、統治している側の傲慢さがあったのではと感じます。
その一方で皇民化政策と同時期に、寺廟整理というのが行われました。これはたくさんの廟が存在していたので、古くなった廟の統合や迷信打破、悪習改善の狙いがあったのです。中には行き過ぎた行為をする者もあり、台湾住民が混乱することもあって、1941年には廃止されました。
世界がまだ弱肉強食だった時代、日本が世界で生き延びるために支配する事になった台湾。その土地の人々には迷惑な事だったのかもしれません。
台湾統治50年の間には住民の抵抗も激しかった時期もあり、それを武力で排除することもありました。
それでも現在の台湾では日本統治時代をいい面も悪い面も見直す動きが盛んになってきて、日本が残した神社や他の建造物などの遺物の修復・復元なども次々に行われています。
そろそろ日本人も過去を真摯に見つめなければならない時代が来たのではないかと・・・。
まだまだ続く・・・。
・・・戦後の台湾。・・・神社の破壊。
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